2011年5月2日 月曜日
ありがとサンキュゥゥゥーー!
●1972年5月2日に生まれて当時の出産費用の半分が円、半分をドルで支払ったという復帰っ子。
両親が共働きのためゼロ才から近所のクリスチャン系保育園に通うも毎回ご飯食べる前のお祈りを
忘れてひとりだけフライングしてご飯を食べていた幼少期。
4才から小学入学手前までアメリカンスクールに通う。英語をしゃべれるようになる前に言葉の壁を
超えて表情とジェスチャーだけで会話ができるという技を習得。
●大山小学校に入学したが初めの一ヶ月でランドセルが脇にすれて「脇ずれ」になり毎日オイラックスを
塗っている僕を見かねて二学期から手提げカバンの許可が親からおり、大山小学校のファッションリーダーになる。
しかしそのリーダーの地位も長くは続かなかった。それは4年生になって体が規格外になり
大山小の緑の制服が俺だけ体育着に変わったからだ。(体育の時間は誰よりも先に運動場で待機できるという利点はあったが
次の授業では一人だけ汚れているデメリットもあった)。
●夏休みはストンプ向かいのパソコンショップ沖縄電子に毎日弁当を持って通っていた。このころからパソコン少年で
当時おやじの口癖が「これからの時代は家で仕事をするようになる!」29年前にこのセリフはすごい。
●ちなみに6年生ではすでに72キロという将来有望な体になっていた。
●中学は真志喜中学。初日に先輩達のパンチラを見てブルマではなく生パンということに
これからの中学生活に胸をトキメかせたのを昨日のように思う。
三年生になりデブでもなぜか運動ができてた俺は最後の校内陸上競技大会でミラクルな走り高跳び準優勝という
栄光を手にしたがそこから勘違いして高校では陸上部にはいるも
宜野湾高校陸上部で走り高跳びからハンマー投げに変更させられるのに時間はかからなかった。
三年間部活ばっかりで楽しすぎてあっという間に時がすぎた。
なので部活以外での思い出は近所にできたチャーリータコスでコーラーが飲み放題という革命が
おきたので毎日通っていた。
●高校時代は陸上で九州大会出場、強化合宿派遣、部長。他では入学時に新入生代表挨拶、
生徒会長、卒業式も代表挨拶とこれほど内申が高いやつもいないだろうと仙台体育大学に推薦で
うけるも見事に落ちて人生が変わる。この時まで体育の先生になりたかった。
●そこからなぜかいきなりアメリカに行く!と言い出す。思い立ってからアメリカの地を踏むまでに半年は
かからなかった。というか飛行機の中でスチュワーデスさんが英語で話しかけてきて何を言っているのかわからず
「げ!なんで俺アメリカいくんだっけ?飛行機の中だがすでに帰りたいんですけど。」と
心のそこから思った。
●アメリカでは人口比率に対する犯罪発生率が全米NO1!という素敵な街カリフォルニはストックトンに約4年いた。
ここでもずっとスポーツ三昧。シーズンをわけてNCAAでアメフト、陸上となんと着るもの、履くものやご飯まで提供された。
さすがスポーツの国だ。ここではジャズ、ソウル等に出会いレコードを買い漁るという毎日を送っていた。
ある日クラスで友達になったドクターマーチンの似合うトゥリスタという娘とサンフランシスコまで旅をすることになり
この時初めてコンドームを買ったがもちろん出番はなかった(詳細は南国で!)
調子にのってDJの仕事をしたりアメフトで盛り上がったり高校生のチアリーダーに
あなた童貞なの?と笑われたり、友達のアルファロメオに照り焼きチキンソースをこぼしたり
俺よりデカイ女見てもビビらなくなったり、お父さんに国際電話でエイズはプールでも感染するよ!
と言われたりと、これまたアっという間にアメリカ生活は終わった。
●沖縄に戻ってきて自分の居場所を見つけた。宜野湾大山にあったバナナジャマイカだ。
そこにはかっこよすぎるニーニーとネーネー達がいて本当に勉強になった。
(皆に「近所のデブ」、というあだ名で呼ばれていたのは後から気がついた)
そんなレゲエバーでジャズをかけたら案の定怒られた。
ということで「南国の夜」が誕生。今から17年前21才の時だ。
そんな感じでおかげさまで39才になりました。30代最後の年なので暴れてみたいと思いますので
「あいつら、ヒドイ!!」と言われるように一緒に遊びましょうぉぉ。
ちなみに南国常連の皆様、南国で俺のお父さんがいるときに年の話はしないでください。
多分お父さんの中ではまだ俺は中学生ぐらいなので年がばれるとほしい物を買ってもらえせん!笑
こんなダメな39才ですがこれからもよろしくお願いします。
m(_ _)m